関東下向道中記
江戸時代前期
柳原資廉
岩瀬文庫には公家の名家・柳原家の日記や記録類が多数収蔵されています。本書は、江戸時代前期に武家伝奏(武家すなわち幕府と朝廷の調整役)を務めた柳原資廉が残した日記です。
江戸時代、幕府からの年賀の御挨拶への返礼として、毎年3月に天皇のメッセンジャー、つまり勅使が江戸城に下るのが習わしでした。資廉はこの勅使を15回にわたり任ぜられています。その時の京都―江戸間の旅の記録が本書で、15年分14冊すべてが岩瀬文庫に収蔵されています。
「飯快三盃食ス」などの記述に見られる旺盛な食欲、あるいは自分のために走り回ってくれた足軽に親しく挨拶をしたり、浜名湖の砂を掘ってみたらハマグリが出てきたのでこそっと紙に包んで持ち帰ったり。出迎えてくれた宿の主人の坊やに土人形をプレゼントしたりなどなど、資廉の健康的で大らかな人柄が随所にしのばれ、何とも好もしい旅日記です。
しかしこの資料、ただ楽しいばかりではありません。その中に、ある有名な日の記録が含まれることで知られています。
元禄14年3月14日、この日付にピンとくる方もおありでしょう。いわゆる“殿中松の廊下事件”と言われる刃傷沙汰のあった日、資廉はまさに勅使として江戸城にいました。「馳走人浅野内匠乱気欤、次ノ廊下ニテ吉良上野介ヲキル、大ニ騒動絶言語也」と資廉は記します。不祥事の勃発に勅答の儀は取り止めかと狼狽する幕府重臣に対し、将軍の面子を慮って資廉は「取り止めには及びますまい。そちらのお心次第でお決めくだされば」となかなか肚の座った大人の対応を見せます。資廉の配慮で滞りなく儀式は終了したものの、畳が清められたり、また急きょ内匠頭の代役を務めることになった供応役が挨拶に来たり、浅野家の家老が呼びつけられたことを知らされたりなど、緊迫した状況が居合わせた者ならではのリアルな筆致で綴られています。後世まで様々な憶測を呼んだ事件の、数少ない第一次資料です。この資料が、めぐり巡って吉良旧領の西尾市岩瀬文庫へとやってきたことには、何やら不思議なご縁を感じます。